映画のジョーカーを見た。
物語の内容や完成度は、様々な形で色々な方がなさっているようなので、
そちらにお任せしたい。
映画の中で僕に見えたジョーカーは、泣いてもいないし、笑ってもいなかった。
だだ、ジョーカーは自身の心を描写しているだけ。
特に自身の腹黒さ、シャーデンフロイデやルサンチマン。
ペルソナ下の含み笑い。
それらは他者に写り見えるものではなく、自身の中に宿るもの。
例えるなら鏡に映った、匿名性の秘匿仮面を被っているだけの自分自身。
つまり、その仮面とは『自分の力量に無関係な、
コントロール出来ない、みなぎる無根拠な有能感』
体温のない受容体。
それを簡単に虚無と嘲る事はできない。
理由としてそれは、人ならば誰しもが内包する、
一部であることは間違いないと思うから。
また、それに対抗する術は諦念するしか、今のところ僕は思いつかない。
資本力(個人の経済力)と利他主義(倫理的な社会性)の相関関係(とりわけ格差社会)に、
目を向けたくないからもあるけど。
これは映画の中の話ではなく、能力格差が視覚化してきた近年の日本、
その冷たさが耐えられない。
『朝ご飯がない子供達』とか聞くと・・・・身に染みます。
合成の誤謬の作用なのかは不明だけど、
今の日本は、経済力と倫理感は反比例な相関関係に思えて仕方ない。
僕の思い込みに過ぎなければ良いのだが。
そんな心的な残留応力が作用しがちな、ストレス社会の昨今、
精神的脆性破壊を忌避する術は、あまり残されていないのかもしれない。
だからこそ、エルピスを見つける事ができるとするならば、
又は、見つける旅路の途中だとするなら、
きっと辛い現実や問題に直面していようと、
その人は幸せへ続く道を、登攀している状態だと思う。
結局、それも他者に写り見えるものではなく、自身の中に宿るもの。
もう一段掘り下げ考えればれば、ペルソナの下の深層部、
そこに核心があると思う。
自分自身の中に何が宿っているのか?を特定できれば。
たとえ、それが他者との非共有だったり、不可知や暫定的だとしても、
ある程度の形質、X(未知数や変数・座標)は捉える事ができると思う。
それ故、何度も考えを推敲するしかないという思いに至った。
その為には日々新しい情報と価値観、
それを受け入れる新たな考えの代謝が不可欠。
基本的に情報量が多いほど精度が上がると思うから。
換言すれば、情報の量や蓄積、代謝が≒(ニアリーイコール)で、
その人のを構成していると考えてもおかしくない。
情報環境に影響されない人などいない事は明白だから。
細胞だってこれだけ入れ替わっている。
例え老いてその周期が長くなろうとも。
つまるところ『新しい思考回路の生成』が現在の最適解かな?
理由は、思考の弁証法では、どうしても既存のアルゴリズムが優位になるから。
完全に新しいものに入れ替える訳にはいかないけれど、
少なくとも新しい価値観に重きを置きたいと感じている。
勿論、快楽と不満に浸漬し、自制耐性が下がり切った現在状態からの、
脱出は簡単な事でないけれど。
フローチャート
厳しい現実→理想と現実の乖離による怨恨→諦念→
エルピスを見つける為の努力→その為には新しい思考回路の生成。
※勿論、人の行動・思考傾向は複雑なので単眼思考で考えてはいけないと思っている。
多様性の意義が問われる昨今だから。ただ今回はその一部に焦点を当て考え、
便宜的に一筋のフローチャートを想定してみた。
さて、現代社会の暗い影を映した映画だったけど、
最近のグローバルな世相を見事に表した作品と思えた。
じゃ~またね!